本願寺新報の駄作

祖父は莫大な遺産の全てを本願寺へ寄付すると言い残していた。別府別院には今でも大きな六角型行灯が本堂の天井から下げられている。家の仏壇も立派である。ご本尊の三尊の御軸は本願寺から下付されなければならないという信念があるものですから仏壇屋で求めずにわざわざ京都の本山を訪れて求める事にした。信仰の喜びがうらずけられて本山へ訪れたにもかかわらず何の愛想もない簡単な下付にガッカリしている。本願寺新報の1月号を見ても、お墓の前で泣く事を意味のない愚挙と捉えて論説を展開している。死んだらお墓や葬式を不要とする信条が本山にあるならば僧侶のお墓や仏壇への読経も禁じなさい。徹底して門徒に教義の本意を知らしめなさい、門徒が他宗旨ヘ転出して行き浄土真宗は壊滅して行く事でしょう。何々家之墓と言う様な偶像のお墓は不要です、南無阿彌陀佛とした阿弥陀様をお迎えする名号塔は必要です。外の仏壇として阿弥陀様をお迎えした浄土に遺骨を奉安するのです、何々家之墓という場所にお骨を捨てるのではありません。昔も今もお墓を立てなくてもよいという説を曲げないことは立派ですが、であるならばお墓を前にしてお経を上げずにお墓の不要を凛として説いて市民権を得ることに勤めなさい。京都の西大谷や東大谷のお墓を解体しなさい。お墓は必要です、南無阿弥陀仏の名号塔を建ててこそ門徒のお墓なのです。