西本願寺

我が家は熱心な門徒の家系である。祖父は一大事業をなして成功した陰には浄土真宗への教えに守られて来た感がある。亡くなる前には全財産を本願寺へ寄付する事を伝えていたぐらいである。各寺院には今でも寄付の足跡が残されていて名前を見るたびに偉大な先祖に恥をかかせないように生きて行かなければならない覚悟を再確認している。本家が九州から本山へ御参りに出掛けて来たので同席した。遠路の九州から先祖の功徳を偲んでのお出ましであるのに受け皿の本山では何の愛想もない。そそくさとした超特急の読経がすまされる行為はまるでベルトコンベアーに乗せられたようなものである。お話といえば焼香の作法のみでこれも若い僧がロボットのような口調で事務的である。信州の善光寺伏見稲荷へ行って参考にするがよい。御参りの方の住所や名前を丁寧に読み上げている。帰りには粗供養なる祈念品まで持たされる。御参りをして良かったと言う充足感がみなぎる。門徒の気持ちを汲み取らない巨大な寺院は正に瀕死の重症であるが本人は気付いていない。